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【顔画像】大谷翔平の両親:父・徹は元野球選手で母・加代子は元バドミントン選手!お二人の育て方も紹介

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第5回WBC日本代表のメンバー入りを果たした大谷翔平(おおたに しょうへい)選手(ロサンゼルス・エンゼルス)のご家族は全員高身長のアスリート一家です。徹(父)さん元野球選手現在は監督です。加代子(母)さんもご紹介致します。

目次

大谷翔平の父・徹はどんな方?

スポニチ

大谷翔平(おおたに しょうへい)選手父親・大谷徹(おおたに とおる)さんの簡単なプロフィールをご紹介致します。

生年月日:1962年
年齢:60歳ぐらい(2024年2月時点)
出身地:岩手県北上市和賀町

出身高校:岩手県立黒沢尻工業高等学校
身長:182㎝
体重:不明

元所属チーム:三菱重工横浜野球部
背番号:不明
ポジション:外野手(高校1年時は投手)
投球・打席:右投左打

1960年代生まれの方で、身長が182㎝とはかなりの高身長ですよね!(現在だと190㎝級の感覚)

大谷翔平選手の立派な体格はお父さまからの遺伝ということでしょう。

大谷徹の野球選手としての経歴

大谷徹(おおたに とおる)さんの野球選手としての経歴をご紹介致します。

中学時代

幼少から野球を始めるも、丸坊主を嫌がり中学生になると陸上部に所属されます。

中学2年生で、三種競技A(100m走・砲丸投げ・走り高跳び)で

県大会入賞

という実績をあげられますが、「明確に個人の優劣がつくこと」を嫌がり、2年生の途中で野球部に転部されました。

野球部では、エースで4番と大活躍され、岩手県内の野球強豪高校から注目される存在になりました。

高校時代

中学卒業後は、甲子園出場を果たしたこともある

岩手県立黒沢尻工業高等学校

に入学されました。

高校1年生の時、投手としては通用しないと言われ、外野手に転校されました。

また俊足を生かす為に、元々右打ちだったのを左打ちへと変更されました。

チームでは主に、切り込み隊長の1番やクリーンアップの3番や5番を任されるほどの選手でした。

しかし、甲子園出場は残念ながら叶いませんでした。

社会人野球

高校卒業後は、

三菱重工横浜野球部

のセレクションを受け合格し、同社に入社されました。

同期には、

飯塚富司さん(阪急ブレーブス・1983年ドラフト3位)
中野佐資さん(阪神タイガース・1985年ドラフト2位)

といった後のプロ野球選手もおられる強豪チームでした。

そんな強豪チームで、大谷徹さんは主に1・2番バッターを任される主力メンバーとしてプレーをされました。

飯塚富司さんは最初からズバ抜けた選手でしたが、大谷徹さん中野佐資さんより優れていてチームでも2番目に俊足でした。

しかし、その後中野佐資さんはみるみる力をつけてチームで一番の俊足になり、飯塚富司さんに続いてプロ入りされました。

大谷徹さんはそんな二人に続いてプロを目指す為、今後はチームの主力として頑張ろうと決意しました。

しかし、6年目、臼井喜久男監督から呼び出され、

来季は戦力として使うつもりは無い

と告げられました。

大谷徹さんは、頑張ろうとしていた矢先だけにショックが大きく、「戦力外通告」を受け入れました。

そして、

1986年現役引退

を決意されました。

プロ野球選手になっていた可能性?

臼井喜久男監督は当時、大谷加代子さんが所属していた勤労部の部長をされていました。

そこで、監督の本音を聞いていたそうで、

選手を鼓舞する為に戦力外構想を伝えて、それでも頑張りたいという奴は使う

と考えていたそうです。

ようは叱咤激励が目的だったそうですが、大谷徹さんにしてみれば、やる気をみなぎらせていただけにショックだったことでしょう。

ただ、もしこの時、大谷徹さんが

勝ちたいなら来期も俺を使え!

と食ってかかっていたら、その後、プロ野球選手になっていた可能性もあったかもしれませんね。

大谷徹の野球指導者としての経歴

大谷徹(おおたに とおる)さんの野球指導者としての経歴をご紹介致します。

社会人野球を引退された後は、会社の業務に専念されていました。

そして、ご自身の地元でもある岩手県へと戻ることもある、転職をされました。

その後、岩手県で落ち着かれた際には、

水沢リトル
一関リトルシニア

など少年野球のコーチとして野球指導に情熱を注がれました(理由は後述)。

また、現在は2014年に大谷徹さんが有志と共に立ち上げた

金ヶ崎リトルシニア

の監督として後進の指導にあたられています。

大谷翔平選手ほどの逸材は難しいかもしれませんが、将来的に高校野球や社会人野球、しいてはプロ野球で活躍する選手が出てくるかもしれませんね。

大谷徹の育て方

息子の為に!

ご長男の龍太さんが野球を始めた際は、仕事が忙し過ぎて野球の練習などにほとんど協力できなかったそうです。

これは横浜から岩手に引っ越し、仕事自体を転職したり、業務内容がコンピューター導入など苛烈を極めた時期だった為、お時間が取れなかったそうです。

それを非常に残念がられ、次男の大谷翔平選手が野球を始めた時には積極的に協力しようとされました。

前述した、「水沢リトル」でのコーチをされたのも実は、大谷翔平選手の為でした。

大谷翔平選手が小学2年生の時にチームに入ったタイミングでコーチを始められました(後に監督)。

そして、大谷翔平選手が「一関リトルシニア」に移られた後も、同チームのコーチをされました。

口を挟むか挟まないか・・・

有名アスリートのご両親、特に父親はどういった教育方針を取るのが正解でしょうか?

実は・・・

正解はありません

というのが答えです。

ただ一つ言えることは、

その道に詳しく無ければ、余計な口出しをしない
その道に詳しければ、できる範囲で協力する

というのが成功の秘訣ではないでしょうか?

その道に詳しく無ければ、余計な口出しをしない

2022年カタールW杯で大活躍された三苫薫選手の場合はどうだったでしょうか?

三苫薫選手のお父さまは、

一切口出しをされない

という教育方針でした。

これはご自身がサッカーをしたことが無かったからです。

その道に詳しければ、できる範囲で協力する

今回の大谷翔平選手の場合は、大谷徹さんが

中学生:エースで4番、強豪校が注目するレベル
高校生:チームの主軸、甲子園を目指すレベル
社会人:後のプロ野球選手が同期という強豪チームで主力選手

というように、プロ野球選手ではなかったにせよ、かなりのハイレベルで野球をされてきた方でした。

なので、プロ野球選手になってからは口出しされていませんが、小学生や中学生ぐらいの段階でご自身の経験を生かした指導をされたというのは素晴らしいことだと思います。

そして、それが結果に繋がっているのが何よりの証拠ですよね。

大谷翔平の母・加代子はどんな方?

スポニチ

大谷翔平(おおたに しょうへい)選手母親・大谷加代子(おおたに かよこ)さんの簡単なプロフィールをご紹介致します。

生年月日:1963年
年齢:59歳ぐらい(2024年2月時点)
出身地:神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰

出身高校:神奈川県立横浜立野高等学校
身長:170㎝
体重:不明

元所属チーム:三菱重工横浜バドミントン部

大谷加代子のバドミントン選手としての経歴

大谷加代子(おおたに かよこ)さんバドミントン選手としての経歴をご紹介致します。

中学時代

大谷加代子さんは小学校5年生頃からバドミントンを始めました。

中学3年生の時、

神奈川県代表の団体戦メンバー

に選抜されるほどの実力をお持ちでした。

全国大会では決勝まで進み、

熊本県代表の八代市立第三中学校

と対戦し、惜しくも敗北しました。

それでも、

全国大会団体戦・準優勝

という素晴らしい成績を収められています。

ちなみに、優勝したチームには、後のバルセロナオリンピック日本代表の

陣内貴美子さん

がおられました。

あの陣内さんのライバルだったとは、大谷加代子さんの実力が相当なものだと言えますよね。

高校時代

中学卒業後は、

神奈川県立横浜立野高等学校

に進学されました。

この高校のバドミントン部は、

インターハイ出場の常連校

ということで、高校時代はバドミントンの練習に没頭した学生生活を送られたようです。

社会人時代

高校卒業後は、

三菱重工横浜

に入社されました。

ただ、同社のバドミントン部は高校時代と比べるとそこまで力を入れていなかったそうです。

練習は、

平日の二日間(就業時間後の夕方)と土日

で、部のレベルも、

社会人大会の神奈川県予選でベスト4

ぐらいで全国大会に出場できるかどうかだったそうです。

それでも、かなりのレベルですが、大谷加代子さんにとっては学生時代より

時間的に余裕のある生活

を送れたそうです。

大谷加代子の育て方

大谷加代子さんの育て方をご紹介致します。

アドバイス

大谷翔平選手は持って生まれた恵まれた体格と運動神経や地道な努力で、学生時代から剛速球で名をはせました。

ストレートの球速は素晴らしかったものの、

制球力に難あり

という弱点に頭を抱えていたそうです。

そんな悩んでいる大谷翔平選手に対して、母親の大谷加代子さんは、

この弱点(制球難)を踏まえて、次の目標や改善点を具体的にどうすべきか考えなさい

とアドバイスされました。

ご自身がバドミントンを通してアスリートとして培った経験からの、重みのある言葉なので大谷翔平選手にも大きな助言となったことでしょう。

子は親の鏡

子供の振り舞いが悪い場合、それは親を見て真似している場合もありますよね。

両親がケンカばかりしている家庭だと、子供も精神の安定ができず、相手への思いやりに欠ける人間に育つ可能性も高くなります。

大谷加代子さんは、夫の大谷徹さんと一緒に決めたルールが・・・

子供の前で絶対夫婦ゲンカはしない

と決められたそうです。

確かに今でも仲睦まじいご夫婦ですが、お二人が仲良い姿を見せていたことが、大谷翔平選手の精神育成上に非常に良い結果をもたらしているようですね。

大谷翔平の両親の馴れ初めは?

大谷徹さんも大谷加代子さんも

三菱重工横浜

に就職されていましたので、出会いの場所は同じ会社です。

では、お二人はどのようにして知り合われたのでしょうか?

大谷加代子さん三菱重工横浜でもバドミントン部でしたが、普通のOL(オフィスレディ)と同じような生活を送られていました。

大谷徹さんが入社2年目大谷加代子さんが入社1年目の時に知り合われました。

野球部は会社を挙げて応援していて、

男子新入社員は応援部
女子新入社員はチアガール

が義務付けられていました。

結団式や壮行会といった飲みの席があり、そういった機会にお二人は出会ったそうです。

大谷家は三兄弟

大谷家は、男の子が二人と女の子が一人おられます。

長男:大谷龍太(りゅうた)
長女:大谷結香(ゆうか)
次男:大谷翔平(しょうへい)

大谷翔平という名前に込められた思い

大谷徹さんと大谷加代子さんは3人目のお子さんである次男に、

翔平

という名前を付けられました。

どんな思いが込められているのでしょうか?

奥州市生まれ!

実はお兄さんの大谷龍太さんとお姉さんの大谷結香さんは横浜市で生まれました

大谷翔平選手は奥州市に引っ越し後に誕生しています。

奥州市と言えば歴史好きには馴染深い場所ですよね。

奥州藤原氏と言えば、源義経が兄・源頼朝からの追撃から逃げ延びた場所です。

悲劇のヒーローとして今でも奥州市では源義経は英雄とされています。

大谷義経

大谷徹さんは最初、

大谷義経

と名付けようかと思われました。

しかし、流石にだいそれた名前かなと思われ、

ご自身が元々気に入っていた「翔」
平泉から一字取った「平」

をあわせて「翔平」とされたそうです。

現在の大活躍を考えれば、大谷義経でも名前負けしていないぐらいのヒーローですが、翔平という名前の方が似合っていますよね。

大谷翔平はモテる!

大谷徹さんも兄・龍太さんも男前ですので、大谷翔平選手もカッコよくて大変モテます。

大谷翔平はお金持ち?

大谷翔平選手は超一流プレーヤーですので、年棒もスゴイです。

しかし、メジャーリーグに移籍される際は、

お金よりも夢

を選ばれています。

こういったところも、野球好きからしてみれば応援したくなるんですよね。

大谷翔平の人柄

大谷翔平選手は非常に優秀なプロ野球選手です。

そして、メジャーリーグでも大絶賛されるようなレベルの選手です。

しかし、それにおごることはなく、とても謙虚で優しい人間でもあるのはご両親の育て方や家庭環境が良かったからではないでしょうか?

ラーズ・ヌートバー選手が侍ジャパンの仲間になった時も、声をかけチームに溶け込めるようにしました。

そんな彼の人柄が生んだのが、日本での「ペッパーミル・パフォーマンス」ブームですね。

元々はラーズ・ヌートバー選手や所属するセントルイス・カージナルスで流行っていたものでしたが、それが日本、そして世界中に広まることになろうとは・・・。

大谷家と白井家

大谷翔平選手と白井一幸さんは、非常に仲の良い師弟関係です。

また、白井一幸さんも自分の娘と交際することを良しとされています。

更に、大谷家は白井一幸さんとも選手の親とコーチとしての間柄でよく知っています。

追記:大谷翔平が結婚発表!

2024年2月29日、大谷翔平選手がご自身のインスタグラムで結婚を電撃発表されました。果たして、お相手の方はどんな素敵な日本人女性なのか?

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