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野茂英雄と鈴木啓示や近鉄球団・フロントとの確執内容や退団の真相を紹介!

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日本人メジャーリーガーのパイオニアである野茂英雄(のも ひでお)さんが近鉄バファローズを退団しロサンゼルス・ドジャースへ移籍した時は、誰もが驚きましたよね。その陰には当時の鈴木啓示(すずき けいし)監督球団との確執があったそうですが詳細を紹介致します。

目次

鈴木啓示とは?

鈴木啓示(すずき けいし)の簡単なプロフィールをご紹介致します。

生年月日:1947年9月28日
年齢:75歳(2023年4月時点)
出身地:兵庫県西脇市

出身高校:育英高等学校
身長:181㎝
体重:86㎏

プロ活動期間:1966~1985年
元所属チーム:近鉄バファローズ
背番号:1(永久欠番)
ポジション:投手
投球・打席:左投左打

年棒:

鈴木啓示(すずき けいし)さん1965年のドラフト1位近鉄バファローズに入団されました。

野茂英雄と仰木彬の関係

野茂英雄さんは入団した1990年から1992年までは、名将・仰木彬監督が近鉄バファローズの指揮を取られていました。

仰木彬監督は当時としては珍しい、自主性や独自性を容認する方でした。

結果、野茂英雄さんは独自のフォーム「トルネード投法」を容認され、自主的な調整方法をされ、監督に対しても尊敬と信頼の気持ちが強かったようです。

特に、ドラフト1位で指名された際の入団条件が

投球フォームを変更しない

ことでしたので、その約束をキチンと守った仰木彬監督との関係は非常に良好でした。

今でこそ、選手各自の個性を重んじる監督やコーチはかなりおられますが、当時としては非常にレアでした。

故に、采配もそうですが、魔術師と呼ばれて所以でもあるのではないでしょうか。

そんな仰木彬監督への気持ちを表現した野茂英雄さんの言葉に、

「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げする為にチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」

というものがあります。

確執を予感していた?

仰木彬監督は球界でも変わった存在として有名でしたので、ご自身がされていた選手の独自性や自主性を重んじるスタイルが多くのコーチや球団OBには好ましくないとご存じでした。

そういった事情から1992年に監督を辞められる際に、近鉄のエースで投手の中心だった阿波野秀幸さんに、

「今まではオレがいたから、コーチや(球団)OBがあれこれ言っても、野茂はいまのままでいいんだと言うことができた。オレがいなくなるのだから、これから先、野茂の投球フォーム(トルネード投法)を変えようとするコーチがいたら、アンタがしっかり止めないとあかんよ。」

と思いを託します。

もちろん、阿波野秀幸さん(今で言うと楽天の田中将大選手のようなチームの投手の中心)がどれだけ重要選手だったとしても、コーチや(球団)OBに言えるはずがありません(特に1990年代は完全な上下関係があった)。

それを分かった上で、仰木彬監督がこのようなことを言われたのは、

次の監督や球団OBなどとの確執を予感

していたからでは無いでしょうか?

異端を受け入れるのは普通では無い

つい最近でも大谷翔平選手の「二刀流」に対して入団当初(2012年)

ほぼ全員が否定的な意見

をされていました。

前例が無いことと、投手か野手のどちらか一つに絞った方が、そのどちらかでものすごい記録が出せるという期待もあったのは事実でしょう。

それでも、当時の監督だった栗山英樹さん「入団前の約束」「個性を尊重」していたので一貫して信じておられましたね。

2012年ですら、前例のないものに対して拒否反応があったのですから、1990年代前半はそれ以上のものでした。

それをやってのけていた仰木彬監督というのが如何に異端児で、そしてスゴイ方だったのかが分かる話ですね(イチローさんの「振り子打法」もそうでしたし)。

野茂英雄と鈴木啓示の確執

1993年からは、「ミスターバファローズ」・鈴木啓示(すずき けいし)さんが監督に就任されました。

通算勝利数歴代4位となる317勝を挙げた歴史的な大投手で期待値も高かったのを覚えています。

しかし、投手としての実績や経験から、野茂英雄さん

投球フォームの改造
調整方法

などに口を出すようになりました。

独自性・自主性の廃止

鈴木啓示さんは監督就任後、出演したラジオ番組で、

「三振は取るが、四球が多すぎる。フォームを改造しなければ。今のフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ。」

野茂英雄さんのことを語っておられました。

仰木彬監督が予感していた通り、野茂英雄さん「トルネード投法」を完全否定し変えようとする人物が出てきました。

更に、投球フォームだけでなく、調整方法にも口を出すようになりました。

野茂英雄さんの場合は、

ペナントレース開幕戦に間に合うように逆算した効率的な調整方法

を実践されてきました(独自性であり自主性)。

鈴木啓示さん

オープン戦から結果が出せるような調整方法

といったものでした。

実績も無いプロ1年目なら、確かにオープン戦で結果を出さないといけませんので言いたいことはわかります。

ただ、野茂英雄さんは既に1993年のキャンプの時点で、3年連続「最多勝と最多奪三振の連続記録」を達成していた超一流選手です。

であれば、一律にオープン戦で結果を求めるのは、ケガや故障のリスクもあるので考えものですよね。

立花龍司のやり方を否定

立花龍司さんは1989年から近鉄バファローズにコンディションコーチとして契約しました(プロ野球史上初めて)。

仰木彬監督からの信頼も厚かったようです。というのも、彼のトレーニング方式が、

最新のトレーニング理論(アメリカで広まっていた)

でただ長時間練習(走り込みや投げ込み)をさせるのではなく効率よくすることで故障を激減させました。

彼がコンディションコーチとして、各選手にあったトレーニング方法を熟考されていました。

野茂英雄さんはその指導の元、

遠投などで自己流にスタミナをつける

トレーニングをされていました。

しかし、鈴木啓示さんはご自身の経験から

ひたすら走り込む

ことでスタミナをつけるように要求されました。

また、鈴木啓示さんすべての投手に対して

「スパイクを履いてランニングをするように」

と指示を出されました。

これに対して、立花龍司さんは、

「この時期(冬場)にスパイクを履いてランニングをすると、足を痛める元になるから止めて欲しい」

とお願いされました。

しかし、鈴木啓示さんはご自身の経験から

「野球選手がスパイクを履いてランキングするのは当たり前だ」

とこの助言を却下し、スパイクでのランニングを強要しました。

実際、仰木彬監督や選手からは「新しいトレーニング方法」は賞賛の嵐でしたが、鈴木啓示さんだけでなく大半のコーチなどからは不評でした。

というのも、

血のにじむような特訓こそ大事(スポ根)
従来の練習をしていないとサボっているように見える
アメリカで流行っているから何だ
そもそも立花龍司はプロ野球選手経験が無いじゃないか

といったのが否定的な理由でした。

実績無いものが大口を叩くなという風潮が特に強かった時代ですので、鈴木啓示さんが立花龍司さんを認めることはありませんでした。

そして、1993年のシーズンが終了と同時に、立花龍司さんは近鉄バファローズを退団されました。

投手陣すべてと対立

この立花龍司さんの退団は、鈴木啓示さんにしてみれば、厄介者払いで他のコーチもやれやれといった感じだったことでしょう。

これで伝統的な根性論で選手達を鍛え上げれると信じていたことでしょう。

しかし、野茂英雄さん吉井理人さんなどの投手陣からの信頼を全て失う結果となりました。

彼ら投手陣は立花龍司さん「最新のトレーニング」のおかげでケガも無く、好成績を収めていたので、非常に信頼していたからです。

野茂英雄さん吉井理人さんは立花龍司さんが退団後も個人的に指導を受けられていました。

他の選手とも確執

当時、野茂英雄さんのチームメートだった金村義明さんも、後年ご自身の著書「勝てる監督 負けるボス」で、

「鈴木は最低な監督」

と評価し、野茂英雄さんの本音についても

「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督の下ではやれないと思った、それだけなんです。」

と紹介していました。

エースの顔に泥を塗る

1994年の開幕戦を任された野茂英雄さんは8回までノーヒットピッチングでした。

しかし、9回に清原和博さんのヒットを皮切りに連続四球を出し、満塁のピンチになります。

ここで抑えの切り札である赤堀元之さんがリリーフ登板するものの、伊藤勤さんに

逆転サヨナラ満塁ホームラン

を打たれて敗戦しました。

エースといえどもピンチにクローザーを送り、結果、打たれて負けるのは勝負の世界では仕方の無い事ですよね?

しかし、実はそう言えない裏の事情があったのです。

試合前に鈴木啓示さんはマスコミに対して、

「今日は野茂と心中や」

と公言していました。

これはエースにとっては最大級の賛辞であり、信頼されている証でもありました。

当然、野茂英雄さんはそれを信じて投げていましたが、最強守護神・赤堀元之さんも信じて準備していなかったのです。

結果、最後まで投げるつもりの野茂英雄さんは裏切られる形で降板し、準備不足の赤堀元之さんはホームランを打たれてしまいました。

この一見で、野茂英雄さん鈴木啓示さんへの信頼は消え去りました。

野茂英雄と近鉄球団・フロントとの確執

野茂英雄さん鈴木啓示さんとの確執から近鉄バファローズを退団したように言われていますが、それ以上に深刻だったのが球団・フロントとの確執でした。

以前から積もっていた不満

近鉄バファローズ球団・フロント野茂英雄さんに対して、今ではありえないような扱いをしていたことが蓄積された不満とも言われています。

2位がええんじゃ!

野茂英雄さん球団との契約更改の席で言われたのが、

「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」

と言われてそうです(近鉄ファンをなめとるな!)。

その理由が、

熾烈な優勝争い:観客動員数が増えて収入が増加
2位で終わる:優勝したら年棒を上げないといけないから

という現代の野球ファンが聞いたら、どのチームでも暴動が起こりそうな発言ですよね!

仰木彬監督を胴上げしたいと思っていた野茂英雄さんにとっても、この球団で頑張りたいと思えなくなる事件ですよね。

お金にケチ

大阪の球団だったので、お金にケチなのは分からないでもないです。

ただ、4年連続最多勝をあげた1993年のシーズンオフの契約更改の席で、野茂英雄さんに対して

現状維持の年棒

を提示したそうです。

頑張った結果が、昇給ゼロと言われたら、その会社にいられますか?

車をどかせ

近鉄バファローズの開幕戦開幕投手を任されていた野茂英雄さんはご自身の自動車で藤井寺球場に来られていました。

当時、藤井寺球場には選手専用の駐車場が無かったので球団のスペースに停めていたところ、球団関係者から

本社の人間が来られるので、車を動かせろ

と要求されたそうです。

チームのエースが開幕を控えているのに、車を移動させろという球団関係者がいますか?

契約更改での騒動

野茂英雄さんは入団した1990年から1993年までの4年間最多勝と最多奪三振の連続記録を達成したことで球界を代表する選手となりました。

しかし1994年は、右肩痛の為シーズン途中で戦線離脱し、連続記録は途絶えることになりました。

迎えた1994年の契約更改で、野茂英雄さん

複数年契約
代理人交渉(団野村を代理人)

を希望しましたが、球団は拒否

「君はもう近鉄の顔ではない」

と無下に却下しました。

これほど実績を挙げた投手から、球団に対して複数年契約を持ちかけたのに却下するなんて、現在のプロ野球界では考えられないですよね?

更に、球団はこの野茂英雄さんの希望を、年棒を吊り上げる為の口実と受け取り

「年棒をもっとよこせ!ということでしょう」

とマスコミに悪く言い広めました。そして、

「次の(契約)更改ではサインするでしょう」

と楽観視していました。

この報道を聞いた野茂英雄さんは、

「お金の問題じゃないんです」

と反論しましたが、マスコミも球団と同意見になっていきました。

時代は1994年、まだまだ一選手が球団に対して何か言うと、完全な悪者と扱われていた時代でしたね。

退団の時の対応

野茂英雄さんがメジャーに行くときの契約交渉では、近鉄バファローズ球団

「もう辞めてくれ」

と言われたそうです。それに対して、

「じゃあ、辞める」

と言われたら、球団は

「ああ、どうぞ。じゃあ、これ、任意引退証や」

と辞めてくれてラッキーみたいな感じで扱われたそうです。

近鉄バファローズ球団としては、

高額年棒の選手がいなくなる(お金節約)
1994年は後半ケガだったから戦力としては数えない
どうせメジャーリーグで成功するはずが無い

といった気持ちだったことでしょう。

そして、1995年、野茂英雄さんはロサンゼルス・ドジャース

マイナー契約
年棒:1,000万円

という近鉄バファローズ球団があざ笑うかのような低条件でメジャーリーグへ行きました。

この時点では、球団も「辞めさせて正解」と思っていたことでしょう。

世間の声

当時、テレビでもこの挑戦を無謀と捉えていて、しかも年棒が10分の1以下になることに、誰もが首をかしげていました。

批判的な意見としては、

日本のプロ野球が馬鹿にされる(一流選手が低い年棒)
日本人がメジャー通用するのは映画の中だけで(勘違い、自意識過剰)
球団に逆らうとは、なんて態度の悪い(生意気)
肩はもう既に壊れているのでは(半年投げてないから)

どうせ、すぐに逃げて帰ってくるさ
裏切り者(主に近鉄ファン)

といったものや、肯定的な意見でさえも、

野茂さん、かわいそう(球団、もっとちゃんとせんか)
監督、ヒドイ(トルネード投法に批判的だった)
一つでも勝てれば(二桁勝利はありえないけど)
いつかメジャーに昇格できれば(何年後にか)

といった同情や理想論が多かったです。

しかし、現実はこの全ての否定的・肯定的な意見を打ち砕くものでしたね。

一年目から、

13勝6敗 防御率 2.54 奪三振236(最多)

を記録し「新人王」を獲得し、全米に

「NOMOマニア」

という言葉が流行るほどの大人気になりました。

そして、野茂英雄さんの成功が日本人選手のメジャーリーグ挑戦への流れを作るキッカケとなり、

「パイオニア」
「レジェンド」

として今でも尊敬されているのです。

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