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すぎやまこういち【ドラゴンクエスト】天才の経歴や趣味「のだめカンタービレ」!嫁や父の職業、母の生い立ちもスゴイ

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2021年9月30日に、天才的作曲家・すぎやまこういちさんが亡くなられて1年近くがたち今度ドラマ化されますね。「ドラゴンクエスト」JRAの東京・中山開催のG1などのファンファーレで馴染深いですが、天才的な経歴意外な趣味、「のだめカンタービレ」も愛読していたのはご存じですか?妻や両親もスゴイ方だったそうです。

すぎやまこういちさんといえば、「ドラゴンクエスト」の曲ですが、初めて聞いたのは第一作「ドラゴンクエスト」1986年に買ってプレイした時ですね。

ゲームミュージックといえば、それ用に作曲した電子的なポップなものが多かった時代、本格的クラシックの曲を使用するという「前代未聞」のビジネス戦略を展開しました。

これには、クラシック音楽に疎い、当時の小学生も思わず「クラシックって、いいもんだね」となったものです。そして、ドラクエ音楽のカセットテープを買って聞くぐらいハマりました。

目次

すぎやまこういち、天才の経歴や趣味

すぎやまこういちさんは、昨年、2021年9月30日に「敗血症性ショック」でお亡くなりになられました。

2021年東京オリンピックで、選手入場の際に使用された曲がすぎやまこういちの「ドラゴンクエスト」だったことで世間の話題になりましたね。

ドラクエ世代にとっては鳥肌ものでしたが・・・、ドラクエ世代って40・50代だけじゃなくて、ほぼ全世代ってことを考えるとスゴイですね。

実は、イギリスにいる他の国の人(イギリス人、中国人など)もドラクエファンが多いので、大喜びしていました。

そんな、全世代、世界的にも愛された、すぎやまこういちの生い立ちを振り返りたいと思います。

プロフィール

  • 本名:椙山浩一(すぎやま こういち)
  • 生年月日:1931年4月11日
  • 出身地:東京府東京市下谷区(現在:東京都台東区)
  • 死没:2021年9月30日(享年90歳)
  • 出身高校:成蹊高等学校
  • 出身大学:東京大学教育学部教育心理学科(東京大学工学部より転科)

経歴

生い立ち

幼少期から、身近に音楽があった為、音楽に親しみを持つ。

両親がゲーム好きだった為、幼少の頃からゲームが好きになった。

小学生時代は父親の仕事の関係上、引っ越しが多く、よく転校をしていた。

中学生時代

中学校は千葉県立千葉中学校に入学したが、戦況悪化で、大分県竹田市・岐阜県坂下町に疎開する。

戦後、東京に帰ってくるが食糧不足で「壊血病」(ワンピースでジョニーとヨサクがかかった病気)になり死にかける

父がこの時期、焼け残った自宅の反物を持参して、荻窪の駅前にあったレコード屋で物々交換をして「ベートーヴェンのレコード」や「オーケストラの楽譜(交響曲第6番、7番のスコア)」を入手してきてくれた。

すぎやまこういち少年は、これらを使い独学でクラシック音楽の勉強をする。

東京都立武蔵中学校(現:東京都立武蔵丘高等学校)の2年生に編入し、

青島幸男(元東京都知事、いじわるばあさん)
砂田実(日本レコード大賞などの総合プロデューサー)

と知り合う。

三人は、すぎやまこういち(級長)、砂田実(副級長)、青島幸男(問題児)という異色トリオで、青島少年が退学レベルの大問題を起こしたときは、他の2人が職員会議に乗り込んでそれを防いだという逸話もある。

高校生時代から大学進学

新設校の成蹊高等学校に第1期生として入学し、音楽部を創設するなど音楽三昧の日々を送っていた。

3年生の時には、学内オーケストラを再組織して指揮と編曲を担当した。

こういった学生生活から、すぎやまこういちさんは音楽大学への進学を望んでいた

しかし、金銭的に難しいため、仕方なく東京大学理科Ⅱ類を受験し合格する(東大が本命じゃないって・・・)。

ただ、理科Ⅱ類は工学部で理系である為、音楽活動の時間が捻出しにくくなるので、3年次に、教育学部教育心理学科へ転向した。

こういう自由な発想が、後の天才的な音楽を生み出した基盤になったと思われます。

大学卒業後

東大を卒業した後は、アルバイトを経て、「文化放送」に入社し、報道部や芸能部で働いていた。

1958年、開局準備中だった「フジテレビ」に転職する。

ディレクターとして時事風刺バラエティ番組「おとなの漫画」を担当する。

この番組は、青島幸男さんが脚本を担当し、ハナ肇とクレイジーキャッツ(植木等もいる)がレギュラーで約5年間続いた。

続いて、「ザ・ヒットパレード」(テレビの歌番組の走り)を企画し、ナベプロ社長の渡辺晋さんと協力し番組を成功させた。

この二人は後に「新春かくし芸大会」も主導し、大成功をおさめている。

テレビディレクターとして伝説級の大成功をおさめた、すぎやまこういちさんですが、同時期に作曲家としても大活躍をされます。

結果、

ヒット曲(自分が作曲)が人気番組(自分が制作)で使用されると変な憶測をされるので苦慮する
JASRACとフジテレビが著作権料の支払いで揉める
フジテレビの給与より、作曲家としてのギャラが多い

という事情から、1965年4月にフジテレビを退社されました。

その後は、作曲家として更なる大活躍をされましたね。

ちなみに、「ドラゴンクエスト」のタイトル曲「序曲」のメロディを完成させるのにかかった時間は

5分ほど

だったそうです。

ただ、すぎやまこういちさんは、かかった時間は

「5分+54年」

とピカソを彷彿させるような回答をされています。

趣味

すぎやまこういちさんは音楽以外にも、幼少の頃からゲームが好きでしたね。

ドラゴンクエスト

ご自身が作曲された音楽が使用されている「ドラゴンクエスト」シリーズすべてプレイされています。

しかも、ゲームのやり込み具合がライトユーザーでは無く、なんと・・・

全キャラクターのレベルを99(最高)まであげている
プレイ時間は300~800時間(シリーズによる)

というドラクエオタクも真っ青のディープユーザーですね。

ちなみに余談ですが、一番好きなドラクエモンスターは・・・

ドラキー

だそうです。理由は

「シルエットが指揮者みたいで、かわいくないですか?」

というお茶目なものでした。

ゲーム好き

すぎやまこういちさんは、テレビゲームだけでなく、バックギャモンのようなテーブルゲームや、カジノのようなゲームもお好きです。

その結果、

日本カジノ学会理事
日本バックギャモン協会名誉会長

を務められるほどの熱中ぶりでした。

のだめカンタービレ

すぎやまこういちさんは、「のだめカンタービレ」が好きで単行本を読んでいたそうです。

作者の二ノ宮和子さんに対しても、

いろんなミュージシャンを取材されている
オーケストラの基本がしっかりできていて高く評価している

など絶賛されていました。

この「のだめ」はアニメ化もされ大ヒットし、実写化もされると社会現象レベルまでになりました。

「のだめ」きっかけでクラシックを始める人や、クラシック音楽を聴く人が爆発的に増えた為、すぎやまこういちさんも後に、

百万の援軍を得た様だ!

と喜んでおられたそうです。

すぎやまこういちの代表曲

すぎやまこういちさんの代表曲といえば、

ドラゴンクエストシリーズの曲

は有名過ぎるくらいに知られていますよね(全部で500曲以上あるとか)。

それ以外に有名な曲ですが・・・

帰ってきたウルトラマンの主題歌

が心に染みる歌詞とメロディーです。

それと筆者が個人的に推したいのが、

G1レースのファンファーレ(東京競馬場・中山競馬場):日本ダービー、有馬記念、ジャパンカップなど

ですね!

あの音楽が好きで、20年以上前の携帯電話の着メロはこれにしていました。

楽曲提供はかなり数があるので、すべては紹介しきれませんので、筆者の個人的好みで・・・

  • 「亜麻色の髪の乙女」ヴィレッジ・シンガーズ、後に島谷ひとみがカバーし大ヒット
  • 「恋のフーガ」ザ・ピーナッツ、後にWユーがカバー
  • 「花の首飾り」ザ・タイガース
  • 「ハート泥棒」キャンディーズ
  • 「学生街の喫茶店」ガロ

などなど、「えっ!あの曲も」のようにかなり幅広く作曲をされていました。

嫁や父の職業、母の生い立ちもスゴイ

妻:椙山之子(すぎやま のぶこ)

すぎやまこういちさんの奥様は、椙山之子(すぎやま のぶこ)さんという方で、「スギヤマ工房」の代表取締役社長をされています。

お二人は前述した、ザ・タイガースの収録で出会われています。

私生活だけでなく、ビジネスパートナーでもありますね。

年齢はすぎやまこういちさんより11歳年下です。

元々はビオラ奏者をされていて、芸大弦楽科をご卒業されているので、クラシック音楽には精通されていますね。

父:椙山庸吉

戦後物の無い時代に、「レコードや楽譜」を息子に与えた父親・・・。さぞかし破天荒な方と思いきや、非常に真面目な人生を歩んでおられます。

1907年、椙山家の父(奈良藩士の末裔)と母(小学校教頭)の間の一人息子として神戸市に生まれました。

東京帝国大学薬学部卒業後は昭和薬科大学で講師として勤務されました。

1938年からは、愛知県庁の衛生技官を務め、1942年には厚生省本省に転職され、1952年には保安庁に出向されるという非常に優秀な経歴をお持ちです。

母:椙山蔦子

1909年、大分県竹田市に生まれました。

ご実家は、浄土真宗のお寺で、7番目の子として生まれた為、6歳の時に養子に出されたそうです。

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