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「英国王のスピーチ」(実話)のジョージ6世はエリザベス女王の父!彼の人柄がわかる12の情報

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「英国王のスピーチ」(The King’s Speech)は実在したイギリス国王ジョージ6世の吃音を言語療法士のローグが友情と共に矯正した話です。エリザベス女王の父親として有名ですが、彼は一体どんな方だったのでしょうか?

目次

ジョージ6世のフルネームは?

ジョージ6世のフルネームは、

アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ」(Albert Frederick Arthur George)

ですが、イギリス国王として単純に

国王(The King)
陛下(His Majesty)

と普段は呼ばれていました。

ジョージ6世の爵位の遍歴は?

ジョージ6世はその生涯を通じて、もっとも多くの称号で呼ばれた方でした。

  • 1895年12月14日~1898年5月28日
    • アルバート・オブ・ヨーク王子殿下(His Highness Prince Albert of York)
  • 1898年5月28日~1901年1月22日
    • アルバート・オブ・ヨーク王子殿下(His Royal Highness Prince Albert of York)
  • 1901年1月22日~1901年11月9日
    • アルバート・オブ・コーンウォール・アンド・ヨーク王子殿下(His Royal Highness Prince Albert of Cornwall and York)
  • 1901年11月9日~1910年5月6日
    • アルバート・オブ・ウェールズ王子殿下(His Royal Highness Prince Albert of Wales)
  • 1910年5月6日~1920年6月3日
    • アルバート王子殿下(His Royal Highness The Prince Albert)
  • 1920年6月3日~1936年12月11日
    • ヨーク公爵殿下(His Royal Highness The Duke of York)
  • 1936年12月11日~1952年2月6日
    • 国王陛下(His Majesty The King)
  • 1936年12月11日~1947年8月14日
    • 皇帝陛下(His Imperial Majesty)
  • 1949年4月28日~1952年2月6日
    • イギリス連邦元首(Head of the Commonwealth)

ちなみに、「皇帝陛下」の称号が1947年で終わっているのは、インド帝国がインドとパキスタンに分離独立したことで、喪失したことによります。

つまり、ジョージ6世が

「最後のインド皇帝」

ということになります。

また、最初の「イギリス連邦元首(Head of the Commonwealth)」でもあります。

ジョージ6世の誕生日はいつ、何歳まで生きられた?

ジョージ6世の誕生日ですが・・・

1895年12月14日

生まれです。日本の年号だと「明治28年」ですね。

生まれた場所は、

Sandringham Houseサンドリンガム・ハウス:現在はチャールズ3世の別邸(国王の私的財産)

で、イングランドのノーフォーク州サンドリンガムにあります。

ジョージ6世の家系図は?

ジョージ6世の両親や兄弟をご紹介致します。

  • 父:ジョージ6世
  • 母:メアリー王妃
    • 第1王子:エドワード8世(王位継承権第一位)
    • 第2王子:ジョージ6世(王位継承権第二位)
    • 第1王女:メアリー王女
    • 第3王子:ヘンリー王子
    • 第4王子:ジョージ王子
    • 第5王子:ジョン王子

ジョージ6世は、第2王子ですので、通常は国王にならない立場ですよね。

ジョージ6世には二人の娘がいました。

  • 妻:エリザベス王太后
    • 第1王女:エリザベス2世
    • 第2王女:マーガレット

この家系図を見る限りでは、まさかエリザベス2世が後の「偉大なる女王」になる運命だとは誰が予測したでしょうか?

ジョージ6世の身長は?

ジョージ6世は背が高いとも低いともイメージがないのですが・・

175㎝

あります。

明治生まれの方ですので、175㎝といえば結構背が高い部類に入るのではないでしょうか?(あえて長身と言いたい)

ジョージ6世の性格などは?

ジョージ6世は元々、病弱で性格も

すぐに怯えだして、泣きだす子供

と言われるくらい弱気だったそうです。

また、幼少期より大きな悩みとある

吃音症

にもこの頃から患うようになったと言われています。

また、当時は当たり前だった

元来の左利きを右利きに矯正

を5歳の頃にされています。

左利きの人間はそれを伸ばすか、両利きにする方が子供の成長には良いと最近は考えられていますが、この矯正も苦痛だったことでしょう。

それ以外にも、「慢性胃炎」「X脚」にも悩まされたそうです。

ジョージ6世の結婚は?

この頃は、王族は他国の王族と婚姻関係を結ぶことが求められていました。

理由は、他国の王族と親戚になれば、「軍事同盟」「内政干渉」なども優位に進めることができるからです。

父・ジョージ5世とロシア皇帝ニコライ2世は従兄弟(顔は瓜二つ)

のような例もあります。

しかし、新時代の到来なのか、ジョージ6世は

自由恋愛で結婚

を夢見ていました。

1920年エリザベス(第14代ストラスモア伯クロード・ボーズ=ライアンの末娘)と出会ったジョージ6世は結婚を望むようになりました。

そして、1921年、ジョージ6世はエリザベスにプロポーズをします。結果は・・・

NO

でした・・・。

それでもあきらめることができないジョージ6世は、翌年の1922年に再びプロポーズをします。結果は・・・

NO

とまたしても断られました。

ジョージ6世の何が気に入らなかったのか?

エリザベス(後の王太后)は・・・

王族の一員にはちょっと・・・
様々な犠牲を払うのは・・・

といった理由で結婚には乗り気ではなかったそうです(顔や性格じゃなくて良かったですね)。

しかし、ジョージ6世は

「エリザベスと結婚できるかどうかで、ボクの運命が決まる!」

と思い込んでいたそうです(何かちょっとアレですが・・・)。

そして、何度もトライした結果・・・

YES

の返事をもらうことができました!(フラれても、フラれても、立ち向かう勇気!)

1923年4月26日、

ウェストミンスター寺院

で結婚式を挙げることができました。

ジョージ6世とライオネル・ローグの関係は?

ジョージ6世は、前述したように幼少期から「吃音症」に悩まされていました。

その為、公式な場での演説を非常に苦手としていました。

吃音症の為、スピーチで大失態!

1925年10月31日ジョージ6世は当時30歳ヨーク公爵殿下として、大英帝国の威信をかけた

British Empire Exhibition(大英帝国博覧会)

の「閉会式のスピーチという大役」を任されました。

しかし、結果は本人にとっても大衆にとっても「極めて悲惨な結果」に終わりました・・・。

吃音症の克服に挑戦!

このままでは、大英帝国の王子として、布いては王室への信頼低下に繋がると危機感を覚えたことでしょう。

一念発起したジョージ6世は、

ライオネル・ローグ氏(オーストラリア人のセラピスト)

の治療を受け始めました。

ジョージ6世とローグ氏は、

呼吸法の訓練

を開始し、妻・エリザベスのサポートもあり、

ほとんどつかえることなく話せる

ようになりました!

そして、リベンジの機会が巡ってきました。

時は、1927年、前回の大失態から2年の月日が流れていました。

舞台は公式外遊先の・・・

連邦議会の開会スピーチ(オーストラリア・新首都キャンベルで開催)

という大英帝国から1901年に独立した後も、イギリス国王に忠誠を誓っていたオーストラリアでの重大イベントです。

しかも、1927年にはオーストラリア内で

首都争奪戦(シドニー VS メルボルン)

が勃発し、妥協案の末に両都市の中間地点に建設した新都市キャンベラでのイベントでした。

このスピーチで同じ失態を犯せば、

オーストラリアのイギリス国王への忠誠は無くなる

可能性も非常に高く、今後、大英帝国が戦争することがあっても今まで通りオーストラリアが戦力を送ってくれることが無くなったかもしれません(第二次世界大戦でもオーストラリア軍は大活躍したので、参加してなければ戦局が変わったかも)。

そして、迎えた本番のスピーチでは、ローグ氏との特訓の成果が出て・・・

大成功

をおさめることができました。

英国王のスピーチ」として後世に映画化された!

この実話を基に制作された映画が

「The King’s Speech」(英国王のスピーチ)

です。

公開直ぐにイギリスで見ましたが、非常に良くできていて思わず引き込まれました。

映画的な演出は当然ありましたが、それでも史実に基づいていて当時の緊迫感も伝わってきたので、まだ見ていない方は是非見てみてください。

ジョージ6世の兄・エドワード8世が!?

1936年1月20日、「ジョージ5世が崩御」されたことで、第1王子のエドワード8世が新国王になりました。

ところが、以前からジョージ6世の兄・エドワード8世は・・・

ウォリス・シンプソン(離婚歴のあるアメリカ人女性)

と交際していました。

イギリス首相のスタンリー・ボールドウィンは、

「アメリカ人の平民で、未亡人でもない離婚歴があり、複数の男性との関係もウワサされている女性と結婚すれば、王位にはいられなくなる!」

と反対されていました。

そこまで言われれば、イギリス国王としては結婚をあきらめるのが通例ですが、エドワード8世が出した結論は・・・

王位の放棄宣言(1936年12月11日)

でした。

そして、望み通りウォリス・シンプソンと結婚したので、

王冠をかけた恋

としてロマンチックに語り継がれています。

が、ジョージ6世にとっては非常に迷惑な話でした。

ジョージ6世は「押し付けられた王位」?

エドワード8世が交際相手の為にイギリス国王を退位するという前代未聞の行動に出たせいで、「推定王位継承者」だったっジョージ6世が国王に即位する羽目になってしまいました。

しかし、ジョージ6世には野心が無かったので全く望んでいない国王の座は、ただ単に

押し付けられた王位

意外の何物でもありませんでした。

イギリス国王への即位が正式に決まった時には、ジョージ6世は親類のルイス・マウントバッテンに、

これは酷いよ!
私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。
子供の頃から国王になるように教育を受けていたのはエドワード8世の方なんだから。
国事に関する書類なんかこれまで一度も見たことなんか無いんだよ。
そもそも、私は一介の海軍士官に過ぎないんだ。
海軍将校としての仕事以外は、これまで何もやったことの無い人間なんだよ!

と愚痴をこぼしまくったそうです。

兄・エドワード8世がイギリス国王を退位する前の日に、母親のメアリーに会いに行き・・・

「ひどいことが起こってしまいました!」

と告げながら、取り乱して子供のように泣き崩れました。

ジョージ6世は心の底から、イギリス国王になることを嫌がっていたようですね。

ジョージ6世とウィンストン・チャーチル首相の仲は?

ジョージ6世はイギリス首相・ネヴィル・チェンバレンが推進していた「ドイツとの宥和政策」をイギリス憲法上、強力する義務がありました。

第一次世界大戦(英語では「Great War」)と呼ばれる先の大戦で、誰もが戦争を望んでいなかったので「これでドイツが静かになり、戦争が回避できるなら」という思いが強かったのです。

しかし、1939年9月3日、ドイツはポーランドに対して「電撃作戦」(航空部隊と戦車部隊の同時攻撃)により、1カ月で勝利を収めます(注意:1か月は確かに短期ですが、フランスは数週間で降伏。実はポーランド軍は強かった)。

1940年には、ロンドンのイースト・エンドやウィンザー城も爆撃されます。それでも、ジョージ6世とエリザベス王太后はバッキンガム宮殿から離れずに、逃げませんでした。

同年、ネヴィル・チェンバレン氏に変わり、ウィンストン・チャーチルがイギリス首相になりました。

当初は、ジョージ6世は相応しいと思っておらず、彼に対して失望していました

その後、二人は徐々に知り合っていき、遂には

イギリス近現代史上、最も個人的な友情で結ばれたイギリス国王とイギリス首相

とまで呼ばれる関係になりました。

1940年9月から1941年2月頃まで、お二人は

毎週水曜日は4時間共に過ごす

というルーティーンで、昼食をとりながら

腹を割って戦争

について語り合ったそうです。

ちなみに戦争中、ジョージ6世エリザベス王太后

軍需工場
爆撃された場所

など現地に赴き、イギリス国民を鼓舞し続けました。

その結果、国王夫妻はイギリス国民から非常に敬意を払われ

国を挙げた戦争遂行の象徴たる存在

になっていきました。

1945年5月、「ヨーロッパ戦勝記念日」の祝賀ムードの中、バッキンガム宮殿の前に集まったイギリス国民は・・・

「We want the King!」(国王よ、お姿を!)

と熱狂的に叫んだそうです。

すると、ジョージ6世エリザベス王太后ウィンストン・チャーチル首相と共に、バルコニーに姿を見せたそうです。

ジョージ6世とエリザベス2世の関係は?

ジョージ6世は第二次世界大戦の勝利に大いに貢献しました。

しかし、その代償として体を壊してしまいました。

更には、ヘビースモーカーであったことも体調悪化を促進したと言われています。

結果、「肺がん」「動脈硬化」など慢性的疾患を複数患うことになりました。

1949年3月には、手術をすることになり、ジョージ6世の長女エリザベス2世が、国王の各国訪問を代行することになりました。

1952年1月31日、ジョージ6世はドクターストップがかかるくらいに体調が悪かったにも係わらず、ヒースロー空港までエリザベス2世を見送る為に足を運びました。

エリザベス2世は、アフリカ・ケニア(大英帝国の植民地)を経由して、オーストラリアとニュージーランドへの海外公務に行く予定でした。

そして、これが父と娘の「最後の対面」になりました・・・。

ジョージ6世は、自身が望まない「王位を押し付けられた」経験上、娘・エリザベス2世に自分も「王位を押し付ける」形になってしまうことに、申し訳なさを感じていたのかもしれません。

それぐらい、娘・エリザベス2世を大事に思っていたということですね。

1952年2月6日ジョージ6世はサンドリンガム・ハウスで崩御されました。まだ56歳という若さでした。

この訃報はケニアにいたエリザベス2世にも直ぐに知らされました。

それは、ジョージ6世から王位を継ぐ為に帰国しろという連絡でした。

エリザベス2世は、しかし腹をくくっていたのでしょう。

父・ジョージ6世の苦労を傍で見ていて、共に第二次世界大戦を駆け抜けた娘は、父が愛したイギリスを守る為に、「女王エリザベス2世」になることに躊躇はありませんでした。

娘もまた、父を大事に思っていたのです。

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