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中森明菜の現在【デビュー40周年】経歴「スター誕生!」落選6回の理由?デビュー後の戦略

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8月30日、中森明菜さんが個人事務所 HZ VILLAGE を設立されました。5年ぶりの活動に「年末のNHK紅白歌合戦出場?」と期待の声もあります。デビューまでの苦労や「花の82年組」という最激戦の年で1番を取ったビジネス戦略を改めて振り返りたいと思います。

時事ドットコムの方でも「中森明菜デビュー40周年」は取り上げられています。やはり、長年のファンだけでなく幅広い世代の方々が注目されている方ですので、一人の有名人を越えた存在であると改めて認識できますね。

目次

中森明菜のデビューまでの苦労

中森明菜さんといえば、「アイドル黄金時代」と呼ばれた激戦の時代、特に「花の82年組」の最激戦を勝ち残った方ですので、松田聖子さんと並んで「最強アイドル」と世間では認識されていると思います。

ただ、今スゴイからといって最初から「ロケットスタート」を切れたわけではないのです。どれほど優れたポテンシャルがあっても、競争相手が多ければ世間の注目を浴びるのは至難の業ですよね?

現代社会でも、良い商品を開発しても、マーケティングリサーチやプロモーション活動を上手く展開しないと売れません。当時は、今のようにインターネットも無い時代ですし、大変だったようです。

中森明菜さんほどの方ですから、デビューはあっさりと思いきや、実は3年の月日を費やしています。

1979年以前「スター誕生!」へ応募

中森明菜さんは幼い頃から、「将来は歌手」になることを目指されていました。その為に、ピアノやクラシックバレエも習われているぐらい本気でした。

当時、歌手を目指す人の多くが目指したのが、

オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ系)

でした。

ここに出場し、優勝することが「プロデビュー」への登竜門だったからです。

現在のイメージや輝かしい経歴から、

「中森明菜さんはスター誕生でいきなりプロデビュー」

と思いがちですが、彼女ほどの能力でもそうは簡単にいきませんでした。

実は、中森明菜さんは「スター誕生!」に応募しましたが、なんと

4回も予選落ち

されているのです。つまり、書類選考で落ちたということです。

「当時の業界関係者は見る目が無い」

と非難するのは間違いで、それくらいに数多くのスターの卵が応募していたということです。正に、

「優れた能力でも目に止まらなければダメ」

という現代のビジネスにも共通する課題ですね。

1979年「スター誕生!」初出場!

1979年、中森明菜さんが13歳の時、5回目の応募にして遂に「スター誕生!」に初出場しました。

当時の「スター誕生!」の「傾向と対策」で有名だったのが、

阿久悠:気難しい
都倉俊一:要求が高い
松田敏江:気に入られると高得点をもらえる
松田敏江さんが好きな曲を歌う

と考えられていました。

この時、中森明菜さんもそれは熟知していたので、とった戦略は・・・

松田敏江さんの秘蔵っ子である岩崎宏美さんの曲を歌う

ということで、

予選:岩崎宏美「夏に抱かれて」
本選:岩崎宏美「夏に抱かれて」

と岩崎宏美さんの歌を予選・本選と歌いました。

既に歌唱力も高く、選曲も完璧で、合格は必然と思われていましたが・・・

松田敏江さんに、

「あなたは表情に若々しさがないわ。この曲は軽いノリの曲なんだから、若さがないといけない」

と辛口なコメントを頂きつつ、得点は低いという事態になりました。

中森明菜さんの初挑戦は、不合格に終わりました。

1980年「スター誕生!」再チャレンジ!

前年の悔しさを胸に、中森明菜さんは再度「スター誕生!」に応募されました。

6回目の応募にして、2回目の通過を果たしました。

番組関係者は、既に前年から

「この子は来年また来るだろう。一年たったらどう化けるか見てみたい」

と期待されていたので、書類審査通過は必然でした。

前回、松田敏江さんの「表情に若々しさが無い」というアドバイスを活かす為に選んだ曲が・・・

予選:松田聖子「青い珊瑚礁」(1980年7月1日 2枚目シングル)
本選:松田聖子「青い珊瑚礁」

1979年から芸能活動を始め、1980年に歌手デビューしたばかりの松田聖子さんの2枚目のシングル「青い珊瑚礁」を選びました。

この戦略の背景には・・・

松田敏江さんに下手に媚を売るとマイナス
同世代の新人アイドル、松田聖子さんの曲を選ぶ

といった前年の失敗を生かした内容でした。

これで松田敏江さんからは高評価が頂けると期待していましたが・・・

「あなた、歌は上手だけど、顔が子供っぽいから、童謡でも歌った方がいいかしらね」

とまたしても辛口コメントが出ました。

このコメントに関しては、賛否両論が出るような内容でした。やはり、

前年「表情に若々しさがない」
今年「顔が子供っぽい」

と180度反対とも言えるコメントに、「生理的に合わなかった」ともウワサされています。

それよりも、「童謡でも歌った方がいいかしらね」というコメントに「本気のアドバイス」なのか、「皮肉」なのかが不明でした。

当時、14歳の中学3年生の中森明菜さんは毅然とした態度で、

「でも、松田先生、スタ誕では童謡は受けつけてくれないじゃないんですか」

と反論しました。

当時、65歳の大御所歌手である松田敏江さんに対して放ったこの言葉は、当時、大変な評判になりました。

もちろん、松田敏江さんは中森明菜さんには低い得点しか付けませんでしたし、総合的にも不合格となりました。

1981年「スター誕生!」三度目の正直!

既に2回不合格している中森明菜さんですが、1981年、7回目の応募をします。

前年、松田敏江さんへの「発言」があったにもかかわらず、書類審査は通過しました。

あの「発言」で数多くいるスターの卵の中で、中森明菜さんは間違いなく頭一つ出たことでしょう。番組関係者は、中森明菜さんに好意的であり期待もしていたと推測されます。

中森明菜さんが、この時に選んだ曲が…

予選:竹内まりや「September」
本選:山口百恵「夢先案内人」

で臨まれました。

前々回・前回と違い、予選と本選で曲を変えるという戦略は、

審査員を飽きさせない
違う曲を歌うことで幅広い実力を発揮できる

という点で、大正解だったと思います。選曲も良いものでした。

松田敏江さんは、「今までで一番低い点数」を付けましたが、他の審査員である中村泰士さん(喝采や北酒場などの作曲家)が強く推薦したこともあり・・・

合格し、プロデビューへの切符

を手にすることができました。

中森明菜のデビュー後の戦略

晴れてデビューが決まった、中森明菜さんですが、最初は売り方の戦略で色々と試行錯誤されました。

1982年 デビュー曲「スローモーション」

1982年5月1日、中森明菜さんは「スローモーション」でデビューを果たします。

この日付は、「花の82年組」と呼ばれる他の有力アイドルであった

1982年4月21日デビュー 石川秀美「妖精時代」
1982年5月5日デビュー シブがき隊「NAI・NAI 16」

を外し、確実に上位を狙う為の戦略である。

しかも、ワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)の寺林晁氏は

1億円

という巨額の予算を中森明菜さんのデビュープロモーションにつぎ込みました(同年の洋楽宣伝費を回した)。

具体的な宣伝方法は・・・

音楽業界誌『オリジナルコンフィデンス』の誌面を丸ごと買い取って中森明菜特集を掲載
アイドル誌『BOMB』(学研)では表紙、巻頭グラビアから特集記事まで約50ページの大特集

といった熱のこもったものでした。

しかし、

テレビの音楽番組は出演できず
「平凡」や「明星」も掲載不可

という状態で、万全では無かったそうです。

それでも、期待値は高く、「NAI・NAI 16」の3位は難しくても20位以内、或いはトップテンはいけるぐらいだったと思われます。

そして迎えた、「スローモーション」のオリコンチャート初登場は・・・

第58位(1982年5月10日付)

という予想をはるかに下回る結果でした。

これには、所属事務所の「研音」もこの結果には憤慨されたそうです。

歌唱力は他の新人の中でスバ抜けていた

ので、今後確実に売れる予感はあったそうですが、やはり「起爆剤」となる戦略が必要でした。

1982年 デビューのイメージを捨てる

デビュー曲は来生えつこさんと来生たかおさんの姉弟による作詞・作曲という最強の布陣で「スローモーション」という非常に良い歌が作られました。

しかし、「良いものが必ずしも売れるとは限らない」のは、今も昔もビジネスの世界では常識です。

当時、アイドルを売り出す際、「清純派」というのは王道で中森明菜さんも「清純派」として売り出しました。

なので、通常は

デビュー曲:イメージを決める
セカンド曲:そのイメージを発展させる

というのが常識でした。

しかし、デビュー曲が58位と突き抜けなかったことから、2曲目を考える前に大きな「かけ」に出ることになります。

なんと、デビューした際のスタッフを総入れ替えして、

「清純派」から「ツッパリ路線」へと180度転換

という大胆な戦略を立てたのです。

そして作成されたセカンドシングルが、

「少女A」

でした。

当時の、社会に反抗した若者が不良となり、まあいわゆる悪いことをしている内容で、それでもどこか悲しげな感じを醸し出した歌詞になっています。

1982年7月28日に発売され、初登場は40位(8月9日付)でしたが、最高順位は5位(10月18日付)と大ヒットしました。

この大ヒットにより、デビュー曲「スローモーション」も売れ、こちらは最高順位30位となりました。

ただ、中森明菜さんご自身は自分の本来の性格とは全く違う、不良っぽい少女の歌を歌うことはあまり好きではなかったそうです。

「花の82年組」という最激戦の年で1番を取ったビジネス戦略

「花の82年組」には、

  • 松本伊代(81年秋先行デビュー)
  • シブがき隊
  • 小泉今日子
  • 早見優
  • 石川秀美
  • 伊藤さやか
  • 掘ちえみ
  • 三田寛子
  • 北原佐和子

と売れた方だけでもこんなに大勢います。

今はお互い助け合える仲間(戦友)の方もおられますが、当時はなんとしても売れないと後が無い時代でした(文字通り後が無い、なぜなら毎年アイドルがデビューするから)。

こういった売れたアイドルの方々は、

ルックスがいい
オーラがある
歌唱力がある(実力差はあるものの)
事務所が全面プロモーション

と差別化する要素がほぼ無い状態でした。

中森明菜さんのように「ズバ抜けた歌唱力」や美人でオーラもあり、事務所も全力投球しても、難しいのです。

そこでとった差別化戦略が、前述した「ツッパリ路線」でしたね。

当時のツッパリは、素行不良だけど、その裏には悲しい事情が・・・みたいなイメージがありました(ドラマ「スクールウォーズ」のような)。

なので、潜在的な消費者からの共感を得られる要素としては、正しい選択でした。

ただ、それをアイドルに持ってくるというのは、冒険的要素でもあったので、決断した関係者やそれを受け入れ実践した中森明菜さんがやはりすごかったという結論になります。

中森明菜の公式Twitterアカウント開設

2022年8月30日、中森明菜さんご自身が公式Twitterアカウントを開設されました。

ファンへの思いが綴られた手紙を投稿されていますのでご紹介致します。

中森明菜さんとしても、2022年は「デビュー40周年」ということで特別な年にしたいという思いが強かったようですね。

世間も体調不良のためとはいえ、5年間活動をされていなかった中森明菜さんの再始動を心待ちにしていたようです。

やはり、あの激戦の時代を駆け抜けた方は、何かちょっと違う力を持っているようですね。

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