イギリスなど海外で日本の歴史について聞かれることが多いです。サムライは人気もあるので戦国武将の話ができれば盛り上がります。織田信長について話す前にサクッとチェックする為に、プロフィールや経歴、生い立ちをまとめてみました。
戦国武将の代表格であり、今も人気がある織田信長についてご紹介致します。
織田信長とは?
まずは簡単なプロフィールをご紹介いたします。
プロフィール
- 生年月日 1534年5月12日(天文3年)
- 没年 1582年6月2日(天正10年)
- 享年 49歳(数え歳)
- 出身地 愛知県名古屋市(那古屋城、最近の研究では
- お墓 京都・阿弥陀寺
- 幼名 吉法師(きちほうし)
- あだ名 うつけもの、第六天魔王
- 趣味 茶道(茶器コレクション)、鷹狩り、相撲観戦
- 特技 乗馬、弓術、水泳
- 愛刀 義元左文字、へし切長谷部
家族
家族構成ですが、有名なところだけご紹介致します。
- 祖父 織田信定
- 父 織田信秀
- 母 土田御前
- 同母弟 織田信行(信雄)、織田信包
- 同母妹 お市の方
- 異母兄 織田信弘
- 異母弟 織田有楽斎
- 義弟 浅井長政
- 義父 斎藤道三(帰蝶の父)
- 正室 濃姫(帰蝶)
- 側室 生駒氏、お鍋の方
- 子供 織田信忠、織田信雄、織田信孝など男女総勢20名以上
織田家とは?
織田家の先祖は平資盛(平清盛の孫)と言われています。
織田家の室町幕府でのポジションですが、
- 尾張国守護:斯波家(源氏)
- 尾張国守護代:織田大和守家
- 三奉行:織田弾正忠家の武将、織田信秀
- 尾張国守護代:織田伊勢守家
- 尾張国守護代:織田大和守家
という風になっています。
守護:足利将軍家から直々に支配権をもらった武家
守護代:守護のサポート(実質支配の場合も)
三奉行:守護代のサポート
となっていますので、織田家は身分の高くない家柄出身ということになります。
ただ、織田信秀が当時の武士としては珍しく、「経済重視」をしていて莫大な資産を保有し尾張の国を実質支配していました。
この経済力を、織田信長は最大限に生かすことになります。
織田信長の経歴
まずは歴史年表風に、織田信長の主要な経歴をおさらいしてみましょう。
- 1546年(13歳) 元服、織田三郎信長と名乗る
- 1547年(14歳) 初陣、今川義元の大浜城攻略戦
- 1548年(15歳) 濃姫(帰蝶)と結婚
- 1552年(19歳) 父・織田信秀死去に伴い、織田家家督を継ぎ、織田上総介信長と名乗る
- 1553年(20歳) 義父・斎藤道三と聖徳寺にて初顔合わせ
- 1556年(23歳) 斎藤道三が斎藤義龍に殺される
- 1558年(25歳) 弟・織田信雄(信行)を暗殺
- 1560年(27歳) 桶狭間の戦いで今川義元を打ち取る
- 1562年(29歳) 三河の松平家康(徳川家康)と同盟を結ぶ
- 1565年(32歳) 尾張統一(犬山城主・織田信清を倒す)
- 1567年(34歳) 稲葉山城を攻略し新たな拠点に。岐阜城と改名
- 1568年(35歳) 足利義明と共に上洛し、足利義明を室町幕府第15代将軍に就任のサポートをする
- 1570年(37歳) 金ヶ崎の退き口、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利
- 1571年(38歳) 比叡山延暦寺を焼き討ち
- 1573年(40歳) 足利義明を室町幕府より追い出す
- 1575年(42歳) 長篠の戦い
- 1576年(43歳) 安土城を築く
- 1580年(47歳) 石山本願寺との戦い終結
- 1582年(49歳) 甲州討伐し、武田家滅亡
- 同年(49歳) 本能寺の変
と一応、年表を紹介していますが、これを見て
「ワクワク」する人と、「ガクガク」する人に分かれるようです。
私は3歳から歴史好きなので前者ですが、たいてい歴史嫌いや苦手になる方は後者ですね。
この年表を覚えるとテストで点が取れるという理由で、
と言われるのですが、まあ私は
だと認識しています。
歴史はトレンディドラマ(死語)
とも思っていて、いちいち年号覚えても何の役にも立たないので「なぜ起こったか?」などを理解する方が役に立ちます。
特に、海外で日本の歴史を話す時は、「なぜそうなったの?」と聞かれるので大事です。
織田信長の生い立ちから織田家統一まで
ざっくりと年表で織田信長の経歴がなんとなくわかったところで、感覚で歴史が話せるようになればと思います。
今回は、織田家の内紛という、「昼ドラマのお金持ち一家」で起こりそうな話です。
織田信秀も変わり者?
織田信秀は非常に優秀な武将でしたが、家庭内問題をきちっとしていなかったので色々とゴチャつきました。
織田信長はそんな織田信秀の三男として誕生しましたが、正室の子なので時期後継者になっていました。
三男なので、元服後「織田三郎信長」なんですが、「三男が後継ぎ」ということも周りにちゃんと説明すべきでしたね。
織田信秀は当時の武将としては珍しく、
と考えていて、蓄財をしていました。
当時のスタンダードな考えは、
で、つまり、
どれだけ米が取れるか?
が武将の財力、つまりは戦力に直結していました。
米を資産としていると収穫時期に合わした、経済活動や軍事行動しかとれません。
しかし、米をいったん、貨幣にしておけば、いつでも軍事行動がとれるのです。
変わり者の子は変わり者
そんな変わり者、織田信秀の息子なので、織田信長も変わり者でした。
幼少から好き勝手していましたが(うつけものと呼ばれる原因)、そんな父の理解と経済的バックアップで許されていました。
ただ、織田信長の変な振る舞いには、
ラフな服装で一般人と関わることで現場の状況を自分の目で見る
若い連中(父親の家臣の子供)とワチャワチャ遊び、団結力を高めつつ能力も見極める
現在人が見れば、社長令息が「現場を知る」や「将来の部下と強い絆を作る」という風に見えるので、
となるのですが、当時は、
次の当主が庶民と関わるなんて・・・
未来の家臣と同じ立場で遊ぶとは・・・
と大人達には「バカにされて」いました。故に、「うつけもの」と言われていました。
ただ、父親はそんな織田信長の行動の真意を知っていたので、
とまわりの家臣が何を言おうと意見を変えませんでした。
しかしそんな、父が無くなると状況が変わります。
更には、父の葬儀でも行儀悪い振る舞いをした為、織田信長が次の当主になることに懐疑的だったものは、
弟の織田信雄(信行)こそが相応しい!
と、反信長派が増えていきました。
そして織田信長の行動を諫められなかったことを悔い、後見役・平手政秀が自刃したのは有名な話ですね。